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「あれが、蝶子さまよ!」桜桃が女学校へ潜入してから間もなく十日になろうとしている。着るものを準備していなかった桜桃は常に濃紺のボレロを着ている。他の女学生を観察すると、殆どの少女たちが桜桃と同じようにボレロを身につけて生活していた。とはいえ、げんざい桜桃たちとともにこの女学校で花嫁修業という名の勉強に励んでいるのは二十人足らずで、特別な事情がない限り他の衣類に着替えることもないという。
いま、桜桃と小環とともに回廊を歩いている桂也乃もボレロ姿だ。「……まさか、標準服以外の装束を見ることになるとはな」
小環は桂也乃の説明をきき、呆れたような声をあげ、先輩である美生(みのう)蝶子の姿を見つめている。五十年ほど前に北海大陸の調査に赴いた男……近代に入ってから名治神皇によって清華五公家と定められた美能家の先祖だったという……が、カイムの民の女との間につくった子どもの子孫である。当時、その男は苗字を持っていなかったが、美能家と結びつきを持ったため、その後、美生、と名乗ることとなり、いまに血脈を伝えているときく。
陶磁器のように白く滑らかな肌、手入れのされた艶のある黒髪、そしてカイムの民特有の澄み切った灰色の瞳。 彼女が纏っているのは質素なボレロではなく、十二単衣に似た豪華絢爛な花嫁衣装だ。金をあしらった深紅の打掛の裾からのぞく裏山吹と呼ばれる襲色目の濃淡が白と紺しか生み出さなかった女学校の背景を覆す。ふだんはみつあみにされていた長い髪も高いところに結いあげられ、柳のように枝垂れた梅花をあしらった白金の簪が歩くたびにしゃらしゃらと涼しげな音色を奏でながら煌めきを発している。「綺麗」
桜桃はしずしずと前を通り過ぎていく蝶子と彼女を迎えにやってきた黒服の男たちの姿を恍惚とした表情で見つめている。
うっとりとしているのは桜桃だけではない。この女学校が創設された当時から在籍している黒多桂也乃も、しあわせそうな表情で蝶子の門出を祝っている。ほかにも、桜桃とともに刺繍の講義を受けている藤諏訪麗うららや、学校長の孫娘である鬼造みぞれとあられの姉妹たちも同じように、花嫁として学校から旅立つ「!」 猟銃の発砲音に、小環が無言で四季の部屋から飛び出していく。四季もまた、ちからの奔流を感じて立ち上がる。 ――天神の娘が嘆いている。 負のちからが潤蕊に雨雲を寄せ付ける。 このままちからが暴走したら、雪よりも冷たい、天が流す涙のような氷雨が降りだすだろう。「……ミカミ・サクラ」 偽名とはいえよく考えたものだ、と四季は嗤う。 神と同等の存在として崇められ、恐れられた生粋のカシケキクはもはやいない。『天』の血を継ぐ人間はこの大陸中に溢れ、それぞれが三上や見上、御神などという姓を名乗ってはいるが、神と等しいちからを持つ者は残っていないとされていた。土地に縛られる形で神職を務める逆さ斎の一族をのぞいて。 だが、帝都からやって来た男に恋してこの地を棄てた巫女姫、セツは、身に神を宿せる生粋の『天』だった。 小環の傍にいた少女は、その巫女姫の娘。なんのちからも持たない小娘が、純血の天神の娘の娘だからという理由で追い詰められ、その結果、母の故郷である北の大地に足を踏み入れることになるとは、なんたる皮肉。環境の変化に翻弄されながらもようやく彼女はここでの生活に慣れてきたように見えたというのに、さきほどの銃声で、呆気なく壊されてしまった。「ちからを持たぬ天神の娘など、我らカシケキクの傍流と同じ。お前たちも放っておけばよいものを!」 四季は毒づきながら、粟立つ肌を両腕でかき抱く。 四季の周りにいる神々はざわめいている。天神の娘の嘆きを聞き入れるように雨雲が集ってくる。稲妻を彷彿させる騒がしい耳鳴りが四季を苛む。雷雨になるだろう。けれど、常人にはわかりようのない変化だ。ただ、天気が崩れた。それだけのこと。 もはや神々と共存する時代は終わったのか? だからこの大陸に春はやって来ないのか?「くだらない」 天女を信じて神の血縁である神皇に嘆願した『雪』も、天女を見限って神嫁にすがる『雨』も、神に媚び諂っているだけだ。 四季の祖先は『天』に繋がりを持ちながらも土地神のいない椎斎にいた。その後、神
* * * 蝶子を乗せた黒い幌馬車はゆっくりと校門前から去っていく。「行ってしまいましたわ……」 すこしだけ淋しそうな桂也乃を見て、桜桃も頷く。周囲には桂也乃たちのように蝶子を見送り名残惜しそうに走り去っていく馬車を見つめている生徒たちの姿がみえる。小環の姿はない。たぶん、呆れて先に部屋に戻ったのだろう。「……桂也乃さん、いつもこのようなことが起こるのですか」 桜桃はおそるおそる桂也乃に問いかける。桂也乃は軽く首を振って、桜桃に説明する。「いつもこんなに派手なわけじゃないけど、先輩たちは結婚が決まると同時にこの学校を去っていったわ。『神嫁御渡(かみよめのおわたり)』と呼ばれる冠理女学校特有の送迎儀式なの」 花嫁修業をするために設立された華族御用達の全寮制女学校。学校を出る時は結婚する時、というのがここでは常識らしい。だが、金さえ払えばわけありの少女でもあっさり受け入れるという裏の面を考えると、すべての生徒が結婚を機に学校を辞するとは考えられない。「神嫁、なんて呼ばれるのね」 「そうよ。なんでも冠理女学校にいた生徒は北海大陸の神々に愛を賜り、良妻賢母となりて夫を支える、って評判ですもの」 桜桃はふーん、と上辺だけの返事をして考える。神々がどうのこうの、というのはたぶん商売のうえでの宣伝文句だろうが、神嫁という呼び名や仰々しい儀式など、天神の娘である桜桃からしても胡散臭さが拭いきれない。 ……じゃあ、あたしや小環みたいにわけありの生徒はどうやって学校を去るのだろう? 潜入するときのように多額の金を入れないと出してもらえなかったりするのだろうか? 桜桃の疑問に気づいたのか、桂也乃は声を落として耳元で囁く。「だけど」 その言葉のつづきをきくことは叶わなかった。 ――パァン! 刹那。 何かが破裂したような甲高い音が、桜桃の目の前で響き渡る。 蝶子の神嫁
「……びっくりした?」 「あ、うん」 「でも、いつものことだ。翌日にはまた仲良く顔を見せるから心配しなくても大丈夫」 「そうか」 同じカイムの民とはいえ部族によっては主義主張も異なるのだろう。小環はふと疑問を感じて四季に掴まれた腕をほどく。「どうした? 桂也乃たちのところに行くか?」 「いや。もうすこしはなしをききたい……北海大陸の先住民であるカイムの民のはなしや、きみのこと、それからこの地でいま、何が起きているのかを」 一気に吐き出して、小環は思わず顔を赤らめてしまう。まるで気になる女子に接近するための言い訳のような言葉だ。下手をすれば口説いていると理解されてもおかしくなかった気がする。「いいよ」 とはいえ、四季の返答は軽かった。「こっちも曖昧な説明を受けるより、本人から事情を知りたいと思ったところだからさ。皇子サマ」 あえて茶化すように、四季は小環の正体を口に乗せる。「な……」 最初からわかっていたよと嘯く四季の微笑に、思わず魅入って更に顔を赤らめる小環。そんな彼に、四季はあっさりと告げる。「『雨』でも『雪』でもないカイムの民だけど、土地にまつわる神々のことなら誰にも負けないよ。なんせうちは『天』の巫女姫さまから神職を引き継いだ『逆斎(さかさい)』だからね」 「……逆さ斎(いつき)。そうか」 桜桃の母、セツが空我樹太朗に嫁した際、巫女姫の職務は『天』の傍流にあたる一族が引き継いだという。生粋のカシケキクではないため、彼らは神の加護を放棄しその土地に仕えるためにちからを持つとされている。皇一族の人間も、彼らの仔細については知らない。天に逆らい地に従ったことを揶揄するように、逆さ斎などと呼ばれていることは知っていたが……。 ――彼らも天神の娘が持つ春を呼ぶちからを求めているのだろうか。 小環は我に却って四季を見つめる。どこか焦りを見せる小環に、四季は自分は敵ではないと穏やかに微笑する。「そ。こっちも天女に春を呼んでもらいたくて必死なのさ」 「もしや、黒多桂也
梧慈雨。その名前から理解できるように『雨』の部族ルヤンペアッテ出身だという。だが、カイムの民特有の灰色の瞳を持たず、虹彩の色は漆黒である小環に近い薄墨色をしている。父か母のどちらかが帝都の人間だったのだろう。 寒河江雁。彼女は『雪』の部族ウバシアッテに属しているカイムの民だ。双眸は白みがかった薄い灰色を落とした金茶色で、髪の色も明るい金に近い茶色である。小環の異母兄である湾の瞳によく似ている。 ふたりは同室でこの女学校に入って来た時期も一緒。カイムの民同士ということもあり帝都からやってきた華族令嬢たちとは距離を置きながらも問題を起こすことなく生活を送っている。どちらも神から与えられた加護と微弱なちからを持ってはいるものの、四季のように常に神の存在を感じることができるわけではないという。 ……とはいえ、俺たちが潜入してから強いちからを持った何かが存在していることにふたりとも気づいているようだ。 どうやら篁という名から始祖神のことだと思ってくれているようだが、雁が指摘したとおり、傍にはカシケキクの末裔である桜桃もいる。事情を知る桂也乃以外の人間に正体を明かすような事態には陥りたくないものだ。 いまのところ、神の存在を肌で感じられるちからを持つカイムの民は隣室の逆井四季ただひとり。それ以外のカイムの民は開拓時に他の大陸から渡って来た人間と血縁関係を結ぶなどして殆どがちからを失ってしまったときく。「多くの神が嘆き大地を震わせ冬睡ふゆねぶりから覚めないでいるこのときに感じたのよ。もうすぐ春が来るのよ」 「それは雁が夢見ているだけのこと。願望にすぎないわ。天女が舞い降りて春を呼ぶなんて伝説、あたくしは信じないわ。それならば神嫁に頑張ってもらった方が現実的よ」 小環は思わず傍観している四季を見つめる。彼女は無言で頷き、彼にふたりの言葉を探るよう伝える。 ふたりの会話は父皇が言っていた『雪』の嘆願とまったく同じだった。 異なっていたのは『雪』の部族が神謡に忠実で天女伝説を信仰しているのに対して、『雨』の部族はすでに天女伝説に見切りをつけていたという点。しかも、別の方法を模索しているという、思いがけない現状だ
蝶子の姿はすでに建物の中にない。しゃらしゃらという簪の鳴り響く音だけが、彼女がさっきまで渡っていたという証になる。 桜桃と桂也乃は門の方まで行ったのだろう、この回廊にいるのは小環と四季、そして四季と同じくカイムの民だという梧慈雨(あおぎり じう)と寒河江雁(さがえ かり)の四人だけになっている。 四季の言葉に驚いたのか、慈雨と雁もまた興味深そうに小環を見つめている。篁という名はかつてこの地にいたある女性が即位前の神皇帝と恋に落ち、帝都で生きることを選んだときに与えられた特別な苗字。カイムの民にとってみれば伝説の姓ともいわれている。神は異なれど始祖神と契約したことで神と同等とされる皇一族に認められた存在、篁一族。だが、彼女たちカイムの民は知らない。その姓を与えられた女性は神皇帝との間に子をなすが、その子である湾はすでに篁を名乗っていないということを…… 四季たちは小環のことを神皇帝の妾腹の娘だと思っているようだ。誰もここにいるのがほんものの第二皇子であることに気づくことなく、篁小環という少女の血の中にわずかに存在する神聖なものに惹かれている。「……神の声なんか、聞いたことないよ」 ふっ、と小環は自嘲する。たしかに自分には始祖神の血が混じっている。だが、常人とはことなる不思議なちからを持っているといわれ崇められても実感が湧かない。ひとに簡単な暗示をかけたり負の思念を和らげることくらいしかできないのだ。その程度なら神の血縁者じゃなくても、神職にいる人間で事足りるはずだ。「小環さん。あなたが強い神に祝福された存在であることは否めないと思うわ」 そんな小環に、慈雨は強く訴える。傍にいた雁もそのとおりだと深く頷く。「カイムの民の多くはその土地における神から加護を受けているけれど、そのちからは微弱でいまでは殆ど常人(つねびと)と変わらないわ。だというのにあなたがこの学校に来てからこのわたしでも違和感を覚えるのよ。四季さんみたいに肌で感じるようなことはできないけど、それでも……」 雁が口にしているのは独り言のようにも思えたが、小環は黙って耳を傾ける。「神と同等であるという『天』の部族カシケキク
黒多桂也乃と逆井四季。ふたりは桜桃と小環の部屋の隣の部屋の住人である。桜桃たちが冠理女学校へ潜入した翌日に挨拶に訪れ、それ以来なにかと行動を共にしている。 桂也乃は清華五公家のひとつである黒多子爵家の令嬢である。たしか四番目の娘だったはずだ。母親は名治の異母妹、滝子。つまり桂也乃は小環の血の繋がりの薄い従妹でもあるため、素性がはっきりしているのである。 そのことを踏まえると、桂也乃が桜桃たちに接触してきたのは天神の娘がどんな人物か把握するためなのだろうと身構えた小環だったが、意外なことにそのことについて桂也乃は何も言わなかった。小環が皇一族の第二皇子であることは知っているはずだが、どうやら篁小環という少女として最初から扱うことにしたらしい。たしかにここで謙った態度をとられて身分差云々言われても面倒臭いのは事実である。 桂也乃と桜桃は相性が良いのかすぐに仲良くなった。お人好しでお喋りな桂也乃と知り合えたことで桜桃の緊張もずいぶん解れたようだ。彼女は天神の娘であることを知っているはずだが桜桃を畏れず友人として接してくれている。すくなくとも桂也乃は桜桃を排除する側の人間ではない。小環はそう判断し、ふたりが友情を育む姿を見守ることにした。 そんな桂也乃と同室の少女が逆井四季である。肩まで届かない長さの赤みがかった黒髪に、森を彷彿させる緑がかった灰色の双眸を持つ彼女は生粋のカイムの民だ。 四季は桜桃を一目見てカシケキクの人間だと見抜いた。どうやら彼女はこの土地にいる神々を肌で感じることができるらしい。現に彼女は初めて見た小環にも得体の知れない神がいると指摘したのだから。 帝都のある東の大陸に息づく始祖神の感触を彼女が知らないことを考えれば得体の知れない神と呼ばれても仕方がないことであるが、まさかそんな風に言われるとは思ってもいなかった小環である。 篁という苗字から皇一族に縁のある娘だと理解したのか、それ以来小環が発する神がかり的な雰囲気について四季があえて話題にすることはないが、警戒されているのは事実だろう。なんせ小環は常に天神の娘と行動を共にしているのだから。 他の生徒たちから見ると小環が主人で桜桃が彼女に仕える侍女のように